2009年10月17日土曜日

工学屋的な発想

またまた実家です。ホームシックじゃないよ(笑)

昨日は恒例となりつつあるワタリウム美術館でのトークセッション。
僕はビデラーです。
中山英之さん(建築家)×冨永昌敬さん(映画監督)
前回、冨永さんがインフルダウンしてしまった時のリカバー回です。

内容はいつもながらすげー面白かったんだけど、俺ごときがレポしたところでその感動は1ミリも伝わらないので特には書きません。というかあのイベントはサブタイトルの「今、この場所」じゃないけど、あの時間・あの場所を共有することでしか得られない感動がありますね。一記録者として痛感します。たぶん将来本にもならないし、DVDも出ない(だって俺が撮った映像クオリティだしw)と思うので、語り継がれて伝説みたいになるんじゃないかと思います。
フジワラさんもそれを望んでいるフシがあるww

前回の中山さんレクチャーでも既に思ったけど、中山さんがカワイイスケッチで一本ずつ慎重に線を足していくやり方は相当な覚悟が要るなと思いました。書き方しだいでスケールを横断するんです、なんて遊びのように楽しく説明してたけど、そうやってあらかじめ自分の脳を自分で揺さぶってから一個ずつ血が出るような思いで積み上げてくプロセス。
今までないような「本当に新しい建築をつくる」という覚悟はスゴイなと思う。それは石上純也さんにも同じ空気を感じる。巌窟の中で、いつか俺は王になるんだ、と思い続けるような伊東事務所での日々が中山さんのような建築家を鍛造したのかと。妹島事務所で鍛えられた石上さんも同じか。
あの表層の可愛さがなかったら厳しすぎて受け入れられないかもしれない。
血でスケッチが描いてあったら怖過ぎる。

で、その原子をぶつけて新しい物質を生み出すようなやり方は俺にはできんなーと少し前から思っていた。
覚悟がないというのももちろんあるが、感覚としてちょっと違うというか。
人によっては、建築家はそれを追及しなきゃダメなんだよ、というかもしれないのだけどもしそうなら俺は建築家にはなれないと思うくらいの影を落としていた。

どちらかというと冨永さんがトーク後の席で言っていたスタンスに共感した。
できるだけロケセットを作り直さないようにアリモノでつくる。
40分ワンカット長まわしで、実は画面内の石の影に監督が隠れていて指示を出し続ける、オンタイムで編集をし続ける撮り方。
映画には編集という行為がすでに存在している。
・・・などホントはもっともっとあったが語りつくせない。しかしそういうモノの作り方というか。
さっきの喩えなら分子と分子を組み合わせてそれがどう使えるか試し続ける行為といえるかも。

そこらへんが説明できるような言葉を今読んでいる本で見つけたので朝5時に書いているわけですw
はー、前置きが長い。。

エリーカ開発者の慶応大・清水浩教授の『脱「ひとり勝ち」文明論』という本。やさしめです。

『理学と工学の差は、ぼくの感触でいうと、「新しいもの」があったときに、
「なぜ?」
と考えるのが理学屋さんです。
「これ、何に使うの?」
と考えるのが工学屋さん。
ぼくは工学屋の典型例みたいなものです。
「なぜ?」にはあまり興味がなくて、「これ、何に使うの?」に、非常に興味がありました。』

という一節に、ああ、と思いました。
おれは工学屋的な考え方が好きなんだな、と。

原理を突き詰めていく「建築家」(それはアトリエ派と言われているのかもしれないが)がいるなら、アリモノを組み合わせて新しいモノが見てみたいと思う工学屋的な建築家がいてもいいんじゃないか。
そう考えれば、ああおれも建築目指しててもいいのかなと思えてきました。
工学屋的思考をぶっちぎっていくといわゆる「ゼネコン」になるのかもしれないけど、そこを振り切らないように未来を見据えてモノをつくるのが建築家なのかなと。

やっぱ「批判的工学主義」になっちゃうのかな~(苦笑)

まあよくわからない内容かと思いますが、誰も読んでないと思うんで(笑)
長いブログですいませんでした。

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