2009年11月29日日曜日

ホームレス・ホーム



風邪なう。
いや実際はほとんど治りかけで、「この大事な時期にみんなにうつしちゃいけないから!」を理由にただ引きこもっているだけである。かといって高尚な本など読んだりしないのが(できない)のが俺。家で何もしていない。未読の本が溜まる一方。
ま、いつか読みます。
この間、全学年強制参加での学内設計イベント、20時間設計なるものがあった。
最初は24時間設計だったのだけど、水曜12時からやると1、2年生の他の授業があるので16時開始に変わったのだった。だから20時間。締まらないがまあいい。
仕掛け人はT井さんとF原さんという噂。

課題は「ホームレス・ホーム」
この言葉から考えられるものならどんな設計案でもおkであるという課題であった。
まず自分で考え始めても良かったんだが、せっかくのデザスタ以外での学科上げての祭りなのだから、イッシーなど最初に4年を誘い、どうせならと1・2・3年生も誘って全部で20人弱を集めてのブレストを16時半くらいからやることにした。思いつきで咄嗟に始めたことだが人数も集まったし、何より盛り上がりを演出できたのでよかったと思う。3・4年生ばかりしゃべってしまったが、最後のほう名指しで発言を促せばみんなしゃべってくれたのでそれなりにいろいろな視点からの考えが出た。別にひとつの設計案に向かって意見を言い合う場ではないので、それぞれが自分の思考を外に出すことで一旦整理することができればいいのだ。このブレストが最終的なプレゼンボードに影響してるかなんて僕らには知る由もないし、これは単なるプロセスのひとつに過ぎない。
さてブレストをやったはいいが、なかなか案が出てこなかった。前期課題のときに考えた寿町のドヤ街を発展させたスケールで、複数の人間のためのホームレスホームを考えようとしたのだが、そううまくいかない。しまいにはキューブ状に切ったスタイロを積み上げてみたりするスタディなど始める始末(これだと全然形が決まっていかない)。いろいろ悩んだりしたものの、わりと概念的な話をする人も多い中、一周回って「ホームレスのための家」というド正面のような180度逆のような話を考えた。

前期に考えていた寿では、住民の多くはドヤ住まいなため、基本的にはホームレスという分類になる(wikipediaを見れば超大富豪のハワード・ヒューズの例なども出てくる)。だからドヤというのはある意味で既に「ホームレス・ホーム」を設計しているとも言える。
今回僕は、貧しいがゆえにホームレスとなった人というよりは選択的に家を持たない流浪の民というような人種のことを想定して、彼らが集うよりしろの様なものを考えた。
シェルターとしての家を考えると、それは突き詰めればツェルトやシュラフやダンボールのようなものでもまあなんとかなるので、HOMEとは何かというと、それはやはり個が孤でありながらも集合することなのではないかと。普段の関心ごとに戻れて安心した。
なので外壁はなく、ただグリッド状に壁がたくさんあって仕切られているだけの家の模型を作った。21世紀的ノマドが集まる家。彼らを無理矢理押さえ込むために切り妻の屋根をかぶせてみた。ただの記号である。
このホームレスホームという言葉自体がそもそも矛盾している気がするので、そういう矛盾している感じも皮肉なしで入れれればと思ったがそれはどうだか。
最終的に12時締め切りの1時間ほど前には提出できたので、まあ余裕を持ってできたと思う。
当日のtwitterハッシュタグは#YNU_No1で、みんなのそのときのリアルなつぶやきが残っている(笑)

夜から朝にかけて体調がすこぶる悪かったが、提出時はそれなりに回復した。(その後悪くなり帰って寝た)

各階に張り出された各学年の案をざっくり見ると、やっぱりそれなりに傾向があるような気がした。ツイッターでも書いたけど。

1年生は原風景の旅的というか、自分の原体験に基づいたもの。身の回りにある概念とか。あと手書きと製図室がないというハンデ(家との往復の時間がかかる)もあったので、本質的な部分を読み解くにはまたちゃんと見なくてはいけないと思う。
2年生はアーキファニチャーをやったばかりというのもあってか、持ち運べる大きさというかモバイルアーキテクチャー的なものがいくつかあった。朝6時くらいに見に行ったとき、仲のよい後輩らは、難しいこと考えすぎで全然できてなかった。大二病である。
3年生はあまり傾向というほどの傾向が分からなかった。自然の中につくったりする森ガール系が何人かいたかな。
4年生は卒制で考えてることをそのまま持ってきてる人が結構いた。当たり前だが。せっかく祭りなのだから卒制の調査部分をテーマをすりかえて載せるのではなくて、新しいモノを考えたほうが楽しいのにと思ったが別にそれは個人の自由である。課題の影響としてはBoys'Cityや一万平米という規模のデカイもの、若者を対象としたものなどがいくつかあった。僕も含めて。
YGSA(主にM2)の人はさすがの出来。傾向というかYGだなって思ったのは敷地が都市にまたがるようなスケールを考えている人が結構いた。バシさんの一回紙をクシャクシャにしてその皺からドローイングを始める手法は面白かった。それに貼り付けてある一応の説明書きみたいなのがいいんだよね。

という感じでしょうか。実質あの後学校に行ってないので(行かなすぎだろ)、もっかいちゃんと見てみたいと思います。
先生たちの採点はイツつくのか。順次先生が各々来て点をつけてくみたいですけどね。
僕のもなんかしらで評価されたらいいな。
祭りのシメとして学年またいだ後日談をY-PACradioで録ってもいいかもね。

では風邪も治ったと思うので明日からまた卒制をやろうと思います。引きこもり終わり。

2009年11月9日月曜日

R.I.P.

火曜日に名古屋から帰ってきてほんの数日後の土曜日、高校陸上部の友達から突然[訃報連絡]と書かれたメールが来た。

僕たちの一個上の学年のK先輩が亡くなったという。
明るく、その学年の盛り上げ役だった先輩で、高校卒業後はパン職人の道を進んでいた。

そんな先輩のことを思い出すと突然訃報といわれても何のことやら見当もつかず、とりあえず友人らに確認するが、誰も詳細はわからないらしい。東京にいる同期(といっても2人しかいない)と連絡を取って、とにかくその日のお通夜に駆けつけることにした。
親が何かあったときのためにと送っておいてくれた新しい黒いネクタイをこんなタイミングで使うことになるとは思いもしなかった。

新幹線で名古屋へ行き、家で一息ついてから少し早めに半田の葬儀場に向かった。
ついたときは同期は一人だけで、そのあと三々五々みんな集まってきた。
現場についても分かったのはただ「自ら命を絶った」ということだけだった。
どこで、どうしてかも分からない。
お焼香をしても「先輩何やってんすか」という言葉しか浮かんでこなかった。

K先輩と仲のよかった先輩たちも、僕の同期の友人たちも、みんな何が起きているかわかってないような悲しくもなく、楽しくもないような顔をしていた。
リアリティを構成するためのプロセスも、ディテールも全部抜け落ちていた。
唯一リアルだったのは先輩の棺の中の顔だけだった。

そういえばK先輩に最後にあったのはおととしの夏に陸上部の友達と野間の海で遊んだときだったかもしれない。その後新年の走り初めとかでも会っているかな?
だけど、もう会えないなんて。未だに信じられない。

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実はこの記事をかくのにもう何週間も手がとまったままだ。
お通夜が終わったあとみんなでファミレスに行って、誰一人突然の出来事に対応できずにただ他愛もない話をして、そのあと3人で不二家でパフェを食べて、小学校からの友人とフィリピンパブに行って飲んだ。
なんだろう。よくわからない。

今までほとんどしゃべったことはないが、実は僕の人生観にはある人間の死がかなり強く影響している。その出来事をきっかけに人生について考え始めるようになった。

そして今また親しい先輩が若くして亡くなってしまった。
何が原因だったのかはわからないし、ずっと思い悩んでいたのかどうかもわからない。
だけれども、25歳にして自らの未来を閉ざしてしまうような世の中なんて。

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そして今日(正確には20日の夜8時ごろ)、椙山の子からメールで、建築系ラジオメンバーで、大同工大の山田幸司先生の訃報を聞いた。
理不尽なくらい突然だ。
「こたつ問題」カルチベートトークのときに一度お会いしていて、この間のNDWのときは会いたかったが会えなかった。これから先もY-PACと建築系ラジオなどでいろいろ接点があるのだろう、そのときはちゃんと議論してみたいなと思っていた。それなのに、だ。
今回もたぶんしばらく実感がないのだろう。
そして建築系ラジオで山田さんのいない回が何回も続いてやっと実感できるのかもしれない。

ただの形式的な言葉にすぎないけれど、K先輩も、山田さんも、どうぞ安らかにお眠りください。


K先輩のお通夜では、先輩と同じ代の人たちがみんな高校時代から好きだったXの曲が鳴り響いていた。それは、なぜか、リアルだった。




2009年11月6日金曜日

Kitalab/Ureca!

ちょっと間が開いてしまった。
この間いろいろあったので思い出しながら、散文的にパラパラと短めにつづりたいと思います。

10月中旬に名古屋に帰ったときの話の続き。
まず名古屋工業大学の北川啓介先生の研究室を訪問しました。
と言っても何か自分の研究や特別な用事があったわけでもなく、名古屋建築界隈で面白そうな人に会いに行きたいと思いtwitterを介して北川先生にアプローチさせていただいた次第です。
北川先生や研究室の多彩な活動についてはwebや「1995年以後」のインタビューをご覧になっていただくとして、僕が感じたことをいくつか。

北川先生は「1995年以後」のなかの写真でも奇天烈な眼鏡をしてたり、コスプレしてたりと、(これはあとで聞いたけど)名古屋建築界では変わった人として有名だったようですが、実際会ってみると、こんなにもポジティブでキレキレで戦略性のある人に久しぶりに会ったと感じました。逆に東京の建築家は戦略性はあってもどこかスカしているというかカッコつけすぎな部分があって、敷居が高い感じがするのですが、先生は敷居は低いのだけどこっちがウッカリしゃべり過ぎていると一字一句試されているような、知的なスリリングさを覚えました。Scrap&Buildも研究室の方々に読んでいただいて直に反応を得ることが出来たのもよかったです。
名古屋や建築に対する問題意識もかなり共通していてとても刺激を受けました。
これからも北川先生たちとは密接につながり続けたいなと思います。
単身乗り込んだにも関わらず暖かく受け入れていただいて感謝。感謝。

その日の夜はまた別の会場(この日は名古屋デザインウィークNDWの最終日)でやっていた椙山女学園大学村上心研究室のダンボール茶室のクロージングパーティにまたしても一人で潜入しました。
これは完全にノーアポかつ、もしかしたら知ってる先生がいるかもというアテも外れ、完全アウェイでした。最初一人でポツンと立っていたのですが、椙山の4年生の女の子二人に話しかけられ、その後すぐに意気投合しました。
彼女たちはUrecaユーレカ!という、Y-PACのような学生団体を主宰していて、フェアトレードファッションショーの会場構成などのデザインを任されたりしているそう。ここでもとても問題意識や価値観がリンクして、とてもよかった。ユーレカとは今後Y-PACとコラボできたらいいねという話をしつつ。
いろいろオモシロい人がいるなあ。
声をかけてきてくれた平手さん、高間さんにはホント感謝。ありがとうございました。

そんな出会いがありつつ、高校の友人@nunmoriと帰り際に会って理系な話をしたりして、名古屋を後にしました。(ちなみにナゼ帰省したかというと、卒制の敷地にしている工場見学と資料集めなどが主な目的だったわけです。)


しかしこの週、再び愛知に戻ってくることになるとは誰が予想しただろうか。