2011年3月13日日曜日

地震、僕の場合。

とても大きな地震があった。
自分自身の心の整理も含めて、僕の場合を記録しておきたい。

3/11 14:46頃
立川に向かう途中JR南武線の車内で地震が起こった。武蔵中原駅のすぐ近く。
これはすごい偶然で、結果的に身を助けたのだけど、たまたま立川・福生の建築の写真を撮るつもりで移動手段として自転車を輪行していた。しかもいつもどおり寝坊して、午前中に出かけるつもりがこの時間になってしまった。撮影的にはアウトだったけど、これもラッキーだった。
緊急地震速報のおかげか、ゆっくりと電車が止まり、止まると同時に大きな横揺れが来た。
高架の上で、しかも電車の車内という元々揺れる乗り物の中にいて震度5の地震はかなり恐ろしかった。車両ごと高架の下に落ちるんじゃないかとさえ思った。
長い揺れの後、さらにいくつかの余震、情報の無い車内は静かに混乱していた。
メールも電話も通じないなか、Twitterで得た情報を元にSkypeのクレジットをその場で購入し、Skype経由で実家の固定電話に掛けた。正直な話、iPhoneであることがかなり助かった。
一時間以上は車内に閉じ込められていただろうか。高架上なので、揺れは怖いが見晴らしが効くので閉塞環境での圧迫感がなく車内もパニックに陥らずにすんだ。
東の空には黒煙が上がっていた。
そして武蔵中原駅からの救援があり、最後尾から降りて線路伝いに避難した。
ここから不幸中の幸いにして持っていた自転車を組み立て、国道409号線から国道1号線を伝い、横浜へ。もし、この時間に福生に居て、しかも徒歩だったらと思うと呆然とする。
街道沿いはところどころ停電で信号が止まり、車道も歩道も避難する人たちで大渋滞している。多くの人達が長い道のりを歩いていた。
大きな地図で見る
3/11 18:00頃
電車や帰路の途中で得るTwitter経由の情報からはわからなかったが、家についてみるとテレビのニュースを見て今回の地震の規模を知る。関東でちょっと大きめの地震どころではなかった。それはみなさんも知る通りだろう。
信じられない光景とはこのことだ。
その後21:30頃、Twitterで自宅近辺で帰れなくなっている人に呼びかけ、関内の不動産屋さんの@yokohamastyleさんをお泊めする。
横浜駅での帰宅困難者6万人と聞き、何かできることがあればと思っていたけど、今思えば僕自身がひとりきりにならず気持ちの面でとても助かった。

そして3/12 9:00頃、少し早めに起きたのでレンタルDVDを返しついでに横浜駅や関内などニュースで映像が流れた場所を自転車で見に行った。
野次馬根性でしかないけれど、東北や北関東で途方も無い災害になっているこの震災を、自分の分かる範囲で把握しておきたかった。
横浜ダイエー前
ダイエーの階段。建物の周囲が地盤沈下したのだろう。
中継するTVアナウンサー。
大きく割れているところ。
避難場所だったパシフィコ横浜から搬出される大量の毛布。被災地へ運ばれるのだろうか。
横浜スタジアム横のビル。正面の壁(鉄筋入りの構造壁ではなさそう)が破壊され、道に瓦礫が落ちている。
3/12 11:30頃、この間までインターンでお世話になっていたオンデザインで片付けの手伝いなどをする。家で一人でポートフォリオを作るなんて気分にはなれなかった。
オンデザインのみなさんも無事だったけれど、ボスのクルマで順次スタッフの家まで送って行くと、また横浜までボスが帰りついたのは夜の2時を過ぎていたそうだ。
事務所のビルはコンクリートの壁にくっきりとクラックが入っていた。

今日はずっとネットやテレビの曖昧な情報でしかわからず、福島の原発や震源地の変わる新しい地震、群馬の祖父母、まだ連絡のつかない八戸の友人、旅先の仙台で被災し慣れない土地で避難生活をしている後輩たち、そして地図が書き換えられるほどの被害を受けた東北の状況、全てが不安だ。そして平常と変わらないように見える横浜の様子との乖離が不気味だ。
一人は怖い。被災地とは比べものにならないとしても。
友達とのSkypeで少しは気が楽になった。

ここから一人でも多くの人が助かることを祈ります。
復興に、なんの専門家でもないけど力になれたらと思います。

2011年3月5日土曜日

首都圏外郭放水路


埼玉の首都圏外郭放水路へ見学に行ってきました。
超かっこいいです。
人間の生活を守るために大地をハックするインフラ技術。
トンネルや立坑には入れないのですが、調圧水槽だけでも一見の価値ありです。
素晴らしい。
いい写真が撮れた。