2015年2月20日金曜日

超参加型デザイン

ときどき芸術(アートと言ってもいいが)が羨ましく思えることがある。
極限まで研ぎ澄まされた表現が人間の可能性の地平を切り拓いている気がするから。

建築家の中でも芸術的な(ここでは良い意味で)作品を作り出す人たちがいて、そういう人が歴史を更新してきた。

僕が今やっている、あるいはやろうとしている参加型まちづくりや参加型デザインというものは、作品を作るという意味で建築家を名乗ることが憚られるな、とずっと思っていた(ついこの間内装設計を一件やったことでこれで建築家を名乗ってもおかしくないだろう!と恥ずかしながら思ってしまったがたぶんこれは違う。建築家とはそういう意味じゃない)。

まちづくりとか公共空間(パブリックスペース)の設計というものはどこか(なぜか)「人のために」「街のために」やっているというエクスキューズがあるような気がしている。
街のためにやっていれば最悪大したものができなくても責められないとでもいうような。
最大公約数的な良い子デザインに落ち着くというか(いや、今まで石巻でやってきたことはそうではないと思っているけれども、設計手法そのものやアウトプットが尖りきったオリジナルなものだったかと聞かれたら目が泳ぐ)。

もっと突き詰めればいい。
参加型デザインの仕組みの向こう側へ行けばいい。
ソーシャルデザインの極北を見たのか。その設計手法自体が人間の可能性の地平を切り開いているのか。

思えば藤村龍至さんが独立当初から「超線形設計プロセス」を(多分にハッタリを含みながら)謳っていたのは、設計の手法そのものを作品化するというやり方に意識的だったからだ。

でも誤解してはいけないのは、先鋭化した手法(超参加型デザインとでも呼ぶ)を、自分の作品、自分の記名性のために目的化してはならないということだ。

そういうことじゃない。
超参加型デザインを行った先に「誰も見たことがないような都市の未来の姿」が実現されているべきだからだ。
新しい都市の姿は新しい設計手法で描かれる。

そこに挑もうとしているのかと思うと、緊張感を失っている暇はないのだ。

【追記】
母の友人の息子の劇作家/演出家の藤田貴大さんが同世代ながらとても活躍していることを知って、ちょっと焦りつつ、インスパイアされつつ、すごいなって思った次第。
マームとジプシーの演劇見てみたい。






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