2015年3月5日木曜日

練習の人生

朝陽に起こされながらふと自分の人生で「練習」だって思ってることが多すぎるんじゃないか?と気付いた。

この料理は練習。
この仕事は練習。
この恋愛は練習。

どこかに「本番」があると思っていないか?
次にもっとうまくやるための練習だったり理想的な相手や仕事が来た時のための練習だって思ってやしないか。

本番で経験を積むことと、いつまでも練習を繰り返すことは違う。
練習と思っていたらそれなりのものしか返ってこない。

次なんてあるようでないのだ。

2015年2月21日土曜日

営業の大切さ

最近フリーランチを立ち上げた不動産屋の高杉さんと飲んだ。

新国立競技場の話からスノボや株の話まで色々したけど、うんうんと思ったのは「営業」の大切さ。

つまらないプライドは捨てて、どんどん新しい世界に自分たちの良さを売り込んで行こう。

2015年2月20日金曜日

超参加型デザイン

ときどき芸術(アートと言ってもいいが)が羨ましく思えることがある。
極限まで研ぎ澄まされた表現が人間の可能性の地平を切り拓いている気がするから。

建築家の中でも芸術的な(ここでは良い意味で)作品を作り出す人たちがいて、そういう人が歴史を更新してきた。

僕が今やっている、あるいはやろうとしている参加型まちづくりや参加型デザインというものは、作品を作るという意味で建築家を名乗ることが憚られるな、とずっと思っていた(ついこの間内装設計を一件やったことでこれで建築家を名乗ってもおかしくないだろう!と恥ずかしながら思ってしまったがたぶんこれは違う。建築家とはそういう意味じゃない)。

まちづくりとか公共空間(パブリックスペース)の設計というものはどこか(なぜか)「人のために」「街のために」やっているというエクスキューズがあるような気がしている。
街のためにやっていれば最悪大したものができなくても責められないとでもいうような。
最大公約数的な良い子デザインに落ち着くというか(いや、今まで石巻でやってきたことはそうではないと思っているけれども、設計手法そのものやアウトプットが尖りきったオリジナルなものだったかと聞かれたら目が泳ぐ)。

もっと突き詰めればいい。
参加型デザインの仕組みの向こう側へ行けばいい。
ソーシャルデザインの極北を見たのか。その設計手法自体が人間の可能性の地平を切り開いているのか。

思えば藤村龍至さんが独立当初から「超線形設計プロセス」を(多分にハッタリを含みながら)謳っていたのは、設計の手法そのものを作品化するというやり方に意識的だったからだ。

でも誤解してはいけないのは、先鋭化した手法(超参加型デザインとでも呼ぶ)を、自分の作品、自分の記名性のために目的化してはならないということだ。

そういうことじゃない。
超参加型デザインを行った先に「誰も見たことがないような都市の未来の姿」が実現されているべきだからだ。
新しい都市の姿は新しい設計手法で描かれる。

そこに挑もうとしているのかと思うと、緊張感を失っている暇はないのだ。

【追記】
母の友人の息子の劇作家/演出家の藤田貴大さんが同世代ながらとても活躍していることを知って、ちょっと焦りつつ、インスパイアされつつ、すごいなって思った次第。
マームとジプシーの演劇見てみたい。






2015年2月12日木曜日

撮影も段取り

鎌倉味噌工房の竣工写真撮影をやった。
写真は鳥村鋼一さん、モデル役で学生さん3人。
物件の記録として竣工写真は欠かせないのだけど、開店前日ということもあり、準備中の仕事を一時的に止めたりしなくてはならず、お施主さん、写真家さんともに迷惑をかけてしまった。

やっぱり、どんな仕事も段取り八分。
ただ単にこの時間にやりますんで、じゃなくて、1日の流れ、使う場所、動かすモノや人がなんなのか、どうなるのかというシナリオを書かなくてはいけない。

現場に入る全員が、不安にならず(不安になるからイライラするのであって)、気持よく仕事をするための段取りがとっても大事。
こんなことは何度も言われているし世界の常識なんだけど、改めて今日はそれを強く感じた日だった。

スチールだったらまだなんとかなったりするけど、これが動画だったらほんとに脚本がないとなんにもできない。おー怖。

現場でできることなんて限られてる。段取り八分という言葉は逆にいうと、現場でできることは二分くらいしかないのかもしれないな。

日々の記録

久しぶりにBlogを再開しようと思う。

でも特にSNSとかにはシェアせず、日々の記録として。
来年度に向けて、文章を書く練習をしなくては、とも思うんだけど、それ以前になにより僕は忘れっぽい。

今日考えていたこともだいたい明日になったら忘れている。
だから(できれば、でもできるとも思ってないので努力しない範囲で)毎日ちょっとずつでも積み重ねるようにしたい。

Facebookでもちょっと長い文章を書くことはあるけど、なんだか流れてる川に灯籠を流して、その灯籠に書いてある供養の言葉に「いいね!」と言われているようで、まったく蓄積されているような気がしないのだ。
(インターネットのどこかにはそういった無数のpostやログの残滓が沈殿してヘドロとなって回線速度を絡めとっているのだろうか)

とはいえ、今日だれとどこに行ったとか、何を食ったとか、そういうことは多分書かない。
だれとどこに行って、何を食って話したことで僕の中に生まれたちょっとした妄想が書かれていくのだと思う。

思いついた時に、短く、ババっと書く。
個人的なログだけど、誰か他の人が読んでも意味はわかるように、要素を書き出して、整理して、短く力強い文章としてアウトプットする。
不特定多数の誰かに向けてじゃなくて、未来の自分に向けて書く文章。

ではまた明日。