東北の震災から3年が経ちました。
僕が石巻に関わるようになってから早くも3年が経ったということでもあります。
あのとき25歳だった僕は28歳になり、20代もあと少しで終わってしまいます。恥ずかしながら社会に出たのが遅かった僕は、震災を経て偶然の積み重なりで石巻と横浜で働くことが社会人のスタートとなりました。
もうそこから数えて3年も経ったのか、と言うのが正直な感想です。自分自身の成長がちゃんとそこにあったのか?という焦りと、意外と月日は早く過ぎ去ってしまうものだという感覚が並走しています。
石巻の料理店・松竹に居候させてもらいながら、日々の出来事や新しく出会う人達にただただ一生懸命リアクションしていたあの時から考えれば、今のISHINOMAKI 2.0の仕事や知名度などは想像もつかないことです。
お金もコネもない若者の(そしてややアウトサイダーよりな)集まりがこんなふうに続いていくとも思っていなかったし、代表の豪太さんが今のように引っ張りだこになるなんて最初は考えられなかった。
けれども一方で、最初から僕達がやっていることは絶対に面白いという一種の確信がありました。もう少し正確に言うと、僕がいる環境や周りの人達はどこよりも面白いという自信がありました。
芦沢さんという大学の先輩がいて、その元々の友人でありクライアントの松竹の久利さんがいて、その小中学校の同級生のちんばさんがいて。芦沢さんに紹介されて来た石巻(たぶん震災前は僕はその地名すらわからなかった)の避難所で豪太さんに会い、ボスの西田さんの仕事仲間の志伯さんから昭雄さんや有子さんやしゅんしゅんさんにつながり、豪太さんや久利さんが通っていた居酒屋店主の明さんに知り合い…という風に書き連ねていったらキリがないほどの偶然と必然の連続の上に今の僕があるのだという実感があります。
横浜にも石巻にも特に決まった席はない僕は、そのすべての人達から仕事の仕方を教えてもらい、志を学ばせてもらっています。先日お話をうかがったある日本酒の蔵元の社長は、「日本酒が私にとっての師匠」とおっしゃっていましたが、僕にとっては彼らこそが(彼らのいるこの石巻というまちこそが)師匠であり兄貴です。
相変わらず仕事も彼女もできませんが、師匠や兄貴たちに恵まれているということは自信を持って言えます。
震災から3年経って、東京や横浜で(あまり三陸に来たことのない)人に会うと「被災地の復興は進んでいるの?」と十中八九聞かれます。そんなことは一概には言えません。仙石線も復旧していないし、仮設住宅に住んでいる人たちもまだ何千人といます。そういうハード的な側面を見ればまだまだ復興しているなんて言えないけれども、まちを歩き、生活する分には別段被災地を意識するようなことはありません。逆に、今の石巻だからこそ生まれ得ているプロジェクトや若者のチャレンジに出くわすことも珍しくありません。そういう意味では、被災地以外の都市と比べて一歩進んでいるところもあれば百歩くらい遅れているところも混在していて、復興したかしていないかというのは言葉の問題に過ぎないと思うのです。
だから僕は(しつこく)まずは一回遊びに来て下さい、石巻を楽しんで下さい、ということ(そのかわり自分の目で見て、自分の頭で考えて次の一歩を踏み出してくださいということ)を言っているわけです。
そうやって外から来た人が、このまちの人と関わりを持って、目の前に見えてきた課題を(勝手に)自分ごと化して、自分の人生の問題として取り組むようになってくれれば、東北全体が復興したかどうかというある意味優等生的な質問はどうでもよくなってくると思います。自分にとってどうか、ということを考えないときっと想像力も追いつかないし、なにより持続しません。
だから、僕がこうして震災後の3年間を自分にとっての社会人としての(つまり大人になってからの)人生と重ねられて、かつ、「面白いまちをつくる」という目標にも重ねられていることはある意味でとてもラッキーなことだと思っています。
2014年の3月11日を迎えて、地震のあった14時46分を初めて日和山で過ごしました。友人の増田くんと一緒に行き、何人か知り合いに会いましたが、この時間はどこに居てもいずい(違和感がある)よねと話をして、なんとなく象徴的な日和山にみんな集まり、海に向かって祈りました。世間的に3年といえば区切りのような雰囲気ですが、たぶんこのまちにいる人はそう思ってないでしょう。
もう3年経った、だけどこれからという思いを胸に、4年目の石巻でもっともっと頑張っていきたいと思います。僕の師匠や兄貴たちのためにも。